defuseep_jacket

kaetsu takahashi – dufuse.ep (2020)

release date

2020.06.05

track

01. defuse
02. expose

kaetsu takahashiによるソロ作品。
Non-REM Recordsからは「alt.view」以降5年ぶりのリリースとなる。オーバーダブも使わなければ、ルーパーも使わない。それでいて幾重にも重なったレイヤーからなるアンビエントサウンドを完全即興のギター独奏によって構築していった作品となっている。


kaetsu takahashi does not use overdubs or loopers. And yet, it is a work that constructs an ambient sound made up of many layers with an utterly improvised guitar solo. It’s been five years since “alt.view” was released on Non-REM Records.

Mastering: Takayuki Noami (Non-REM Studio)

kaetsu takahashi

“Sabachthani”のリーダーでもあり、”cahier”や”Forest People”のギタリストとしても活動している。2014年からギターによる即興演奏を軸として、様々なサウンドを発表し続けている。東欧やドイツのレーベルからも音源をリリースすることもあり、海外においても評価を得ている。
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kaetsu takahashi is the leader of “Sabachthani” and also works as the guitarist of “cahier” and “Forest People”. Since 2014, he has been presenting a variety of sounds based on improvisation on the guitar. He has also released material on labels in Eastern Europe and Germany, and his songs have been well received outside of Japan, where he is based.

-HyochaN (音楽家)

 巡る血液の循環、季節の移り変わり、生命の生まれ変わり。その周期性を想うように立ち上っては消え、その隙間を埋めるようにまた立ち上っていく…そんな音のひとつひとつを聴いていた。
 それは、旋律と呼ぶには少し無機質な気もするが、それ故に聴き手の想像力に限りなく寄り添う。思えばkaetsu氏のギターの音色には、そういった精神がこれまでもずっと通底して流れていたように感じる。彼はギタリストでありながら、非常に緻密に工学を知り、音響を知り、いつも確実な理論を持って空間を操る音の魔術師だ。そんな彼が生み出すギターの音色は音源だろうがライブだろうが格別で、その場で使用する機材の美しさを細やかに映し出している。

 そんなkaetsu氏が新たにリリースした新作「defuse.ep」。ギターの独奏によって録音された本作は、これまでライブ等でも使用されてきたループが封印され、更にポリモードを用いた単旋律のペダルトーンを軸とした構成をとる等、かなりの制限を課せられた状態で作られている。
 しかし、それを感じさせず、むしろそれ故により施された洗練をしっかり感じさせてくれるのがやはりkaetsu氏の演奏。特にこの作品からは音と音の”間”に対する彼の集中力が限りなく感じられる。余裕を持ち、包容力を持って、次に鳴らす音の適切な立ち上がり位置を捉える。そうやってひとつひとつ丁寧に弾かれた音は常に緊張感を有しながら、何気ない日常に溶け込むような穏やかさも持ち合わせている。
 エフェクトによって、またそのリアルタイムでの可変によって作られた音色は、本来ギターを弾いて鳴る所謂クリーンな音色からは一見程遠いように聴こえる。しかし、kaetsu氏の膨大な知識や経験によって生み出される音はいつも、エフェクト自体の効果を”クリーン”に映し出す。エフェクトによって拡張された余韻が展開の、倍音が音階のレンジを広げる。「defuse.ep」はその”効果”に、絶大な信頼を寄せて作られた作品のように思う。それ故に、最終的に聴こえてくる音の太さから私は、生き生きとしたギターを感じずにはいられないのだ。

 また私は、ループの制約から解き放たれることによって生まれる「展開の広がり」を、この「defuse.ep」から改めて感じさせられた。
 ループステーション / ディレイというエフェクトは、フレーズをループし重ねていくことでひとりでもアンサンブルを実演出来るなど、アーティストに新たな可能性をもたらしてくれる。しかしそれは同時に、独奏性において新たな制約を生み出すことにもなるのだ。
 一度フレーズをループさせてしまえば、それを解除するまでひとつのフレーズが固定されてしまうことになる。そこにオーバーダブを重ねていけばいく程、常に鳴り続けるフレーズが増えていく訳で、展開を操ることが非常に困難となっていく。結局はループを止めて、新しい道筋をゼロから作り直すしかない。しかし、独奏というスタイルにおいて一度定着したループを断つことは、同時に確約された周期的な展開やフレーズを失うことにもなる。考えてみれば今回のkaetsu氏の作品は、音楽の”曲”性を補完してくれる定型的存在が限りなく排除されたものだ。リズムがなく、メロディもない。
 しかしそれを補ってあまりあるように、音の揺らぎはより鮮明なリズムを有し、オクターブはより広いレンジを持って響いてくるように聴こえる。またそれらが充分に経過したうえで新たに立ち上る音と、消えゆく音との重なりが、更なる空間の変化をより明瞭に聴かせてくれる。音が生まれ、消えゆくまでのその流れの中に、より一層の特徴、深み、重みを感じずにはいられないつくりになっていると言えよう。
 次々に立ち上るその一音一音は、聴けば聴く程に多彩で、まるで大小様々な海洋生物のように目の前に現れては泳ぎ去っていく。それらひとつひとつにしっかりと焦点が当てられ、そのうえで全体をゆったりと眺めていられるような余裕も併せ持つ。このような展開を確約されたループの上で作ることはかえって難しいだろう。充分なリズムやメロディを有した音楽では何気なく聴き流してしまうような、計算し作り込まれた”音”そのものの魅力を教えてくれる音楽だ。

 このepは、「defuse」と「expose」の2曲で構成されている。どちらも7分超で、一見長く思えるかも知れないが、kaetsu氏のこれまでのワークを聴いてきた人達からすれば、かなり短い方ととれなくもないのではないだろうか。
「defuse」は、文字通り無駄な音が一切取り除かれた、この作品のコンセプチュアルな部分を一身に背負った曲。時に明るく、時に幽玄に立ち上る音のひとつひとつに思いを馳せ、残り続ける余韻までじっくりと聴いていたい一曲だ。
「expose」では更に多彩な音色が飛び交い、より世界観が具体的に映し出される。明瞭なギターフレーズがこれまでと違う新たな浮遊感を与え、鳥のさえずりのような音がまるで自然の中に居るような感覚を与える。記憶の中に沈んだ風景を思い起こさせるように、曲はその深みを増していく。
 対照的ともとれる二曲で構成された「defuse ep」だが、通しで聴くとやはり通底しているのは洗練された音作りと、それを効果的に聴かせる為のリアルタイムの展開作りだろう。だからこそ、7分×2曲という時間もあっという間に感じられる。長さとしてもかなり洗練された無駄のない作品だ。

 我々は常に、季節の変化や周りの生命の変化と共に生きている。時間経過の中で、世界は非常にゆっくりと、非常に長い周期性を持って移り変わっている。普段私達音楽家は、自然や人のそういった変化の大局や一瞬を切り取って、曲やライブを生み出しているように思う。
 kaetsu氏の作り込む”音”のイメージは、私にとってその”変化”が一筆書きされたある種の究極形に近く、それらを言葉にすることはとてもおこがましいと感じてしまうというのが正直なところである。彼の音の美しさは、結局は機材や音響の構造的な知見を超え、取り払った先にある。そういった音こそが、音楽の理論や予備知識を持たぬものにも純粋な想像力≒心の余裕を与えてくれるように思うのだ。
 本人が長いキャリアのうちに培ってきた知識や経験は、作品の深いところで確実に、静かに太い脈を打っている。是非その深さまで想像を巡らせながら「defuse.ep」の音との旅を楽しんでほしい。


-Ren (Musu Bore)

kaetsu takahashiというギタリストは、実に日本では稀な存在のギタリストだと思っている。

いや、ギター扱い一つとっても、作曲家としても、誰よりも日本では頭一つ飛び抜けたレベルにあることは間違いないはずなのだが。

下手すれば、そこらの誰よりもギタリストという生を突き詰め切った挙句、そのギタリストというステレオタイプな言葉を、平然とゴミ箱に捨てて、飄々と音楽を楽しんでいる存在であることは否定できまい。

誰よりも無欲であることに、一番、欲深な追求をする音楽家。

出遭ってこのかた、kaetsu takahashiという、この矛盾極まりない生き物には驚嘆させられっぱなしなのだが、日本で考えられている『ギタリスト』という生物のイメージから、これほど遠くかけ離れた存在というのも、他にはおるまい。

さて、その彼がdefuse.epという作品をドロップした。

此度の作品は、いつもの自分の必殺兵器を全部封じたらしいが、実は、そんなことは、私にとってはどうでもいい情報だ。

それにしても、何と意味深なタイトルだ。
defuse、expose

defuse 【他動】(爆発物の) 信管を外す (危険など) 取り除く、 鎮める
expose 【他動】(保護されていない状態や危険なものなどに〜を) さらす、むき出しにする

この演奏、正に、その演奏の体現をサラッとやってのけている。

要は、過剰な装飾としての演奏技能や、 楽曲の複雑化を尊し、とするこの国の音楽の価値観からは、最も遠く、真逆の価値観の極北を突き詰めながら、同時に、この20年間、Ambientというものが、誤った方向へ向かい、音として楽しめるものが非常に少なかったことを見透かしたかのような音だ。

というのは、本来「そこにある世界を妨げない」というさりげなさを保ったまま、それでいて、この人でなければ為しえぬね音空間を構築し得る人、というのは、実に少ない、と個人的には思っている。

実は、そこが、Ambientの加減の難しさ、だと考えている。

自然体である事を狙おうとすればするほど、無作為であろうとすることの「作為」が顔を出す。それが返って、狙い過ぎたようなあざとさを生む。

彼だけが、そのAmbientを名乗るあざとさに、この国で誰よりも正確に気づいていたのだろう。

「音を楽しめと言われても、楽しめない」、そんな音を作り出している事に、平手打ちを華麗にかませたような音だ。

だが、そこに、アーティストエゴ、とかいうものは全くない。
むしろ、この音に、理論だ技術だ、どうのこうのを、いちいち言葉を重ねるのも、野暮な気はする。

白紙に、一本、あまりにも美しく流れるような線を書いて、その流れの美しさに溜息の出るような感銘を受ける作品だ。

ああ、今回の作品は、 純枠にやらかしましたか。
誰より先に、Ambientの真の境地に到達してしまいましたね。

今回の音は、ずっと流し続けていることに、何らの違和感もない。
そこに必要以上に「kaetsu takahashi」のエゴはない。
音楽として、音として過度の主張もない。

なのに、誰よりも美しい音や旋律の流れに、一人のギタリストであり、作曲家として拘った「kaetsu takahashi」が、音の背景の向こう側から、透明なシルエットのように、確かに浮かんでいる。

その立ち位置にある事の難しさに、過去、この国に音楽を志した誰もが失敗した音。
心地よさに揺蕩ったまま、繰り返し聞きたくなる音。

まずは、この音楽、 黙って部屋の中で、大音響で流してみたらいい。

この音楽だけだ。

「黙って聞け。言葉はいらない。ずうっと流しっぱなしにして、部屋を心地よい時の流れに置いてくれる音は、」と言える音は。

誰もがその言葉を軽く扱って、失敗した中で、この作品だけが、唯一、それを体現している。それも、ごくさりげなく。

余計な講釈は何一つ要らない。歌詞もいらない。

流しっぱなしにしていても、世界は傷つかないのに、何と心地よく美しい音の余韻は、たっぶりと感じる不思議。

音楽って、本当は、これだけでいいはずなのに、どうして、こんな音をほかの人は出せないんだろう、と思う。

実は、こういうことをやらかすのって、よほど、天性のパランス感覚を持ちながら、誰よりも、その矛盾を成立させないとできない音なのだ。

簡単に真似ようなどと思ってはなりませんよ。

誰よりも、ひたすら、ひたむきに、毎日演奏に向かって、めちゃくちゃギターに向かった挙句、ある日、ふと、それを全て捨て去って、純心に立ち返った人しかできない音なのだから。